今日は「このライブに行けなかったら一生後悔する」という気持ちを強く持って、きちんと予定した時間通りに退勤し、18:58に豊洲PITに無事到着して、syrup16gのHELL-SEEツアー初日を見てきた。
ちなみにsyrupのライブを見たのは3回目、前回は1年半ほど前のコレだった。
1ヵ月続くツアーだが、今日しか行ける日がなかった。地方に見に行こうにも全部平日で、唯一の日曜日開催の横浜公演は先行に3回落ち、一般もスマホとPCの2台持ちで挑んだけれど取れなかった。
20年前にリリースされたこのアルバムを、私は17年前くらい、高校1年生のときに聴き始めて、以降、人生をともにしてきた。
…わけがない。
こんな暗いアルバムを日常的に聴いてたらまともに生活できない(今は。若い頃はできていたから空恐ろしい)
syrup16gは本当に大好きだが、普段聴いてしまうと心身のリズムが狂って現世に帰ってこられなくなるので、極力聴かないようにしている。
なので今回のツアーも、発表された瞬間に行くことは決めていたが、あえて予習、もとい復習はまったくしないで今日を迎えた。
イントロから歌詞から何まで脳に染みついてはいるものの、やっぱり曲順がおぼろげだったり、「そうだった、この曲もあった」と思い出したりもした。
そんなことはどうでもいいくらいに、今日の私には強烈な目的があった。
『HELL-SEE』の7曲目に入っている、『(This is not just)Song for me』という曲が、誇張でなくこの世でこの人生で一番好きな曲だ。
こんなにも「美しさ」だけで出来ている曲を、他に知らない。
この曲をライブで聴く機会がないまま、バンドは解散し、解散ライブでもやらなかったので、もう死ぬまで聴けないと思っていた。
このツアーが発表されたとき、「死ぬ前の願いが1個叶うな」、と大げさでなく思った。
だから今日は正直、この曲を聴きにチケット代を払い、豊洲まで行ったようなものだった。
この曲だけ聴ければあとはどうでもよかった。
ライブが始まる。1曲目、イエロウ。2曲目、不眠症。
このあたりまでは記憶していた。「あとはどうでもよかった」と書いたが、実際は1曲目から懐かしさ(だって復習してこなかったから)と、五十嵐が50歳になって人前に立って歌っていることの感慨で、かなりグッときていた。
目当ての曲が7曲目だとは記憶していなかったので、だんだん曲が進むにつれて、「そろそろ次かな」「あのイントロ鳴るかな」とドキドキしていたが、
いざ待ちわびたイントロが始まると、音源の繊細さとは程遠いけれどあの美しいアルペジオと、不安定なボーカルで、一生に一度、やっと、『(This is not just)Song for me』を聴くことができた。
音楽は時間芸術なので、当然曲ははじまり、終わりが来る。
泣きながらライブを見ることはたまにあるが、2番くらいに突入して、「もうすぐこの曲が終わってしまう」悲しさで泣いていたのは初めてだった。
この曲が終わったあとも、もう終わってしまった、もっと集中して聴けばよかった、悲しさでまた泣いた。
そんな具合で1曲入魂しすぎていたので他の曲はぼんやり聴いていた部分もあったが、それでもあまりに自分の脳や記憶に染みつきすぎて、ぼんやりしてもいられないタイミングがいくつも訪れた。
このアルバムに初めて心酔した頃の自分はうつ病でなかった。今の自分は、うつ病である。
3年半、治療を経験しながら、ずっと五十嵐のことを考えていた。
『シーツ』という曲に、"いつか浴びるように溺れるように飲みたいよ"という歌詞がある。
うつに罹るまで知らなかった。抗うつ剤を服用している人は、お酒を飲んではいけないこと。
『Hell-see』には"健康になりたいなと隣の奴が言う"とある。
健康になりたい。この一言がこんなに切実な響きをもって聴こえてくるとは想像していなかった。
"使えないものは駆除し、排除されるよなぁ"。これは『正常』から。
先週、久しぶりにパニック発作を起こしそうになったときに、ずっと考えていたことだ。
今ならわかる。20代だった五十嵐がどんなに血を吐くような思いで(実際、『吐く血』って曲もあるし)作品をつくって、録音して、世に出したのか。
不安や恐怖や、朦朧とする意識や、痛みと戦ってきたのかも今なら想像がつく。
だから、今日、"これは僕の作品です、愛すべき作品です、誰に何言われても怖いものなどありません"と五十嵐が歌ったときに(『ex-人間』)
大きな声でワッと泣いてしまいそうになった。
あなたには才能がある。あった。だから
"30代いくまで生きてんのか俺"(『I'm劣性』)
50歳になってステージに立ってくれて本当に嬉しかった。
うつ病になると希死念慮とかとは関係なく、普通に冷静に、「生きていけんのかこれ?」と不安になって、淡々と死について考える機会が増える。というか考えざるを得なくなる。
それは仕事を続けられなかったり、貯金が底をつきたり、孤独だったり、といった理由から。
五十嵐が歌詞に書いた苦しみがちょっとでも分かるようになった今、50歳でこのツアーをやろうと決めた彼の心意気を想像するだけで泣けてくる。
豊洲PITからの帰り道、何年かぶりにシャッフルでsyrupを聴きながら歩いた。
あまりのめり込むと明日の仕事に響くうえ、明日は通院だ。
今日のことは忘れたくなかったので今日のうちに書いた。
ここまで書いて今あらためて、世界で一番好きな曲を、もう恐らく二度とライブで聴くことができないんだと想像して、悲しくて涙が出そうになる。
泣いてないでもっと集中して聴けばよかった。
追記:
今日は立ち位置も運も悪くステージの上はほぼ何にも見えなかった。五十嵐のダンス(したらしいじゃん)も見えなかったし、演奏中の姿もほとんど見えなかったので、下を向いて泣いたり天井を見上げたりした。
ステージから去る仕草も全く見えなかったから、大樹ちゃんが五十嵐をおんぶしている光景を思い出したりしていた。