本日、恵比寿でThundercatを見てきた。
熱心なファンとは言えない自分がなぜ貴重な来日公演を見に行けたかというと、大学時代の師匠から突然メールがきて、チケットを譲ってくれたからだった。
自分で買ったアルバム「Drunk」と、iTunesの「はじめてのThundercat」を聴き込んで迎えた今日。
ライブは素晴らしかった。
と同時に、すごすぎて何だか全然分からなかった。
「分からなくていいんだ」と初めて思えた。分からないけれど気持ちよかった。興奮した。でも分からない。これが何拍子なのか。弦が何本あるのか。英語で何をしゃべっているのか(会場は笑い声が発生していたので英語が分かる人が多かったようだ)
私には分からない。
でも、ここにいる2000人のうち、「分かって」聴いている人なんて何人いる?
前で楽しそうに踊っているギャルも、酔って叫んでる兄ちゃんも、頭の振り方なんてめちゃくちゃだ。絶対にThundercatの音楽を本質的に「分かって」ない。(と思う。メチャ分かってたら超ゴメン)
でも彼ら彼女らを前にして、何よりギラギラのサンダーを目撃して、「分かる」ことなんて大した価値はないな、と初めて思った。
私は昔から分からないものを拒絶する癖があった。
私は旅行に行くのが好きではない。それについて、10年ほど前に友達から面白いことを言われたのを覚えている。
「どうして?旅行なんてただ"行くだけ"じゃん?」
「行った先で砂漠とか海とか見ても、何も思えないのが怖いんだよ」
「なるほどね…、何も思わなくていいんだよ」
美術館で絵を眺められないのも、洋楽にいまいちハマれないのも、映画が苦手なのも、全て同じ理由からだった。
何を感じればいいのか分からない。
何も感じられなかった時が怖い。
私には「分からない」から鑑賞する資格がない。
そんなのはおこがましい態度なんだって、今日やっと、身をもって「分かる」ことができた。
大好きなAlfred Beach Sandalこと、北里彰久さんの愛読書を、真似して読んでみようと思って、日本語なのに2行目でフリーズしてしまった「重力と恩寵」という本がある。
さすが東大卒、私には分からねぇとどこかにやってしまったけど、明日からまた読んでみようと思う。
分からないなりに読んでみようと思う。