以前の記事で、「1番になれない」苦悩を書いた。
連日の登場で(心酔しすぎだろ)という感じだけれども、この本によると
発達障害のケを持つ人は、ハナから「人が普通にできることができない」「人生のスタート地点が違う」「それでも何とか生きていかなくちゃいけない」
のだ、ということだと学んだので、
少なくとも自分が前の記事で主張した"1番になれないのは、自分が発達障害だからだ"というカラ理論にすがりつく以上は、
そもそも1番になろうだなんてアイデアを持つ資格すらない。
という悲しいジレンマに気が付き、拍子抜けした。
1番になろうだなんて、ちゃんちゃらおかしな話だったわけだ。
25歳くらいから、認めたくはなかったけれど深層心理で「自分は無能かもしれない、少なくとも多くの人より優れてはいない」ことに気づき始めてから、
私は自分の身を守るために、「変人枠」でポーズをとることにした。
真人間業界で勝負しては抜きん出られない、どころか落ちこぼれてしまう人間も、
無理やり畑を引っ越して、別の角度から斬りこむフリをすることで、
"あの人は一味違うよね~"
"(優秀かそうじゃないかは置いといてさ~)"
といった存在感を醸し出し、成功者レースから逃げることができると本気で信じていた。
今でもやめられない。依存である。
髪を金(というか真っ白)にしてみたり、チンピラのような服を買い漁ったりといった外見に始まり、
仕事中は意地でも耳栓を外さないのもそうだし、とにかく変な人っぽく見られたかった。
当然ながらモテない。でも「アッハハ~金髪だからさモテるわけないよね!」という盾になってくれた(と信じている)。
これがもし茶髪に巻き髪でモテなかった時の悲惨さたるや。逃げ道ないじゃん。
その意味では、自分が発達障害だと信じたいのも「変人枠願望」から来るものに他ならないし、
最悪な言い方になるが、パニック障害や抑うつを発症した時も、
また一歩変人に近づいた!という罰当たりな優越感がなかったわけではない。
と、変人枠を私は自分のいいように利用してここまで生き延びてきたけれど、
純粋な向上心から、「人と違うことは素晴らしい」と信じているのも、また事実である。
同じく25歳くらいの時に見た、この動画が忘れられない。
「人と違うことを重んじる」
長岡くん!(元々ファン)
やっぱ言うことが違うぜ!なんてかっこいいんだ!
この動画のこの言葉を聞いた瞬間から、人と違うように生きていこうと心に決めた。
ただ人生は難しくて、
私の仕事は大衆に支持されるモノを生み出す仕事であるからして、
変人エッセンスだけでは到底やっていけない。
変人になろうと一生懸命努力しているうちに、マスの感覚が身についていないことに気づかずここまで来てしまった。
モノを売るって何て難しいんだろうか。
こんな当たり前の壁に、社会人7年目でぶち当たってしまい、身体を壊すという
変人もどきの人生…。
ここでもやはり大切なのは「感覚」である。
もはや「感覚」に支配され思い悩まされながら、一生を終えていく覚悟ができている。